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伝統文化

禿山城

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説明

壬辰倭乱のあった1593年(宣祖26)、権慄(クォンユル)が外敵と戦い勝利した場所です。

正確な築城年代は分かっていませんが、記録によると、元々百済が建設した城だったものが、統一新羅と高麗を経て壬辰倭乱まで利用されてきた場所で、都城の出入口に関係する戦略上の要衝としての機能を果たしていました。 1593年7月に全羅道観察使兼巡辺使であった権慄が勤王兵(王を近くで守る軍隊)2万人を率いて北上し、この城に陣を張って外敵を迎え撃った場所として広く知られています。翌年の9月11日から14日まで、わずか4日間で、民が協力して修築工事を行ったといいます。こうした禿山城の事例が模範となり、衿之山城(クムジサンソン)でも兵糧を集め兵士を訓練させ、続いて月溪山城(ウォルゲサンソン)や婆娑城(パサソン)にまで影響を及ぼしました。 

壬辰倭乱が終わり、この城の重要性が強調されると、1602年(宣祖35)、辺應星(ピョンウンソん)が修理され、1796年(正祖20)には水原城の築造に併せて改築され、今日に至っています。

また、ここには洗馬台地(セマテジ)の伝説が残されており、「禿山城と洗馬台地」として史跡にも指定されています。1593年、権慄将軍が駐留していた際に加藤清正率いる日本軍がこの禿山には水がないと考え、水の入った袋を山頂に送り、嘲笑ったといいます。しかし権慄は、水が豊富であるようにみせかけるため、白馬を山の上に連れてこさせ、白いご飯を馬にかけて入浴させる芝居を行いました。これを見た倭軍は山の頂上には水で馬を洗うほど豊富に水があると誤判し、退去したといいます。この洗馬台は1957年に復元され、現在は石垣約400mと4つの門が残されています。

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